剣魂51号 平成18年・・・「平常心」

2013年08月04日 09:11

剣魂51号 平成18年・・・「平常心」

 

生前、大森玄伯先生が”おやじ”と親しみと尊敬を寄せられていた昭和の剣聖斎村五郎範士は、「平常心」の言葉を好んで良く書かれていた。私が夢を抱いて上京した大学の剣道部の卒業生は斎村範士直筆の色紙を記念品として頂いていた。色紙には決まって達磨の一筆書きと共に「平常心」と記されていた。もちろんひとり一人への為書きである。頂けることを楽しみにして四年間を稽古に励んだわけであるが、当時晩年を迎えられていた範士の後姿を校内で二回ほど見かけたことはあるものの、ついにその凛々しい剣風を拝見することはかなわなかった。卒業後まもなくの三月82歳で亡くなられ結局念願の色紙を手にすることはできなかった。
 学生剣道の熾烈な戦いの中で、試合を前にすると否応なく不安と緊張の瞬間が来る。そんな時必ず「平常心」という言葉がよぎるのである。「普段どおり落ち着いて」「いつものようにあわてることなく」とお題目を唱えるかのように集中力を高めていた自分がいる。困った(苦しい)時の神頼み。考えてみると誠に勝手のいい話である。いつ頃か定かではないが、そんな自分の勝手さに疑問を持ち始めていた。
 「楽屋こそ本舞台」そんな頃初めてこの言葉を知り「平常心」の持つ別の意味があるのではないかを考えてみた。”能”や”歌舞伎”の役者は舞台に立って初めてその真価が問われるものと思いがちであるが、そうではなく真に求められる姿は楽屋での振る舞い、準備の段階から本舞台が始まっているという訓えなのだ。何かが自分の中で変わり始めていた。
 「平常心」(普段の心持)
  ① 何も考えていない、何かをすることを意識していない状態
                                -  「無心」の捉え方
  ② 意識してことを求めていく状態       
                                -  「有心」の捉え方
このようにして考えるならば、②「有心」の「平常心」が楽屋のあり様を示していると言えるのである。何時、如何なる試練が待ち構えていようとも、平素の生活の中で常にその一大事を心掛け(意識して)対応していく「平常心」だからこそ、絶対を求められる場面で効力を発揮することに繋がっていく。生活即剣道の精神を今一度かみ締め、体力低下をカバーしていくことができればと考えているこの頃である。